高台寺に引き続いて、こんどはその塔頭のひとつである圓徳院にお参り。
圓徳院は、資料ごとに色々と記述があってなかなかややこしいんですが、もとは2つの塔頭だったそうです。高台寺の創建にあたって、ねねは伏見城から化粧御殿と前庭を移設して住居とし移り住みました。ここはねねの没後に永興院という塔頭となります。一方、ねねの兄である木下家定は警護のため、ねねの住居に隣接して居館を建て、後に家定の次男利房が木下家の菩提寺としてこの居館を圓徳院に改めたそうです。その後永興院は圓徳院所管となって今に至る…つまり、途中渡り廊下がありますが、それを境に永興院と圓徳院があったということでしょうか。
圓徳院と高台寺は普段それぞれ600円、500円(京の冬の旅期間中は600円)の拝観料が必要ですが、共通券を買うとこれが900円(京の冬の旅期間中は1000円)となります。しかし1000円と言えば法隆寺と同じ、個人的に「安過ぎ!」と思う厳島神社などはたった300円、かかえる文化財の内容からするとちょっと…と思わなくもないですね。
さて、この圓徳院には楽しみが2つあって、ひとつは近年とくに有名になった北庭、もうひとつは長谷川等伯の山水図襖です。
先日の東博での長谷川等伯没後400年展でも出品されていましたが、「禅寺の襖に絵などいらん!」と言った住職の留守中を狙って、勝手に描いてしまったと言うエピソードのある作品で重文指定。これはもともと圓徳院にあったのではなく、大徳寺塔頭の三玄院にあり、方丈に置かれていたものが、廃仏毀釈を機に全36面のうち32面が移ることになったもの。残念ながら公開されていたのは複製ですが、保存性を考えれば仕方ないですし、襖の状態で見られるのは本来の姿をイメージできていいですね。
メインである北庭は、最後に現れるわけですが、写真で見るより随分良いです。それにしてもエラい石の数で、中でも鶴島と亀島を結ぶ橋の石の豪快さは際立っています。これらは皆秀吉が諸大名に命じて各地から集めさせた名石だそうで、石の裏には持ち込んだ大名の銘が彫られているとか。それを聞いたから…かどうか分かりませんが、どうもそれぞれの石がバラバラで、雰囲気も不自然、隙間を埋めただけのような配置のところもありますし、枯滝石組にしても特定の方向から眺めないとちょっとユルくてもうひとつな感じ。
この庭は賢庭が石組みをして小堀遠州が手を加えたと言われているそうで、言わば作庭の黄金タッグが関わったとされ、それが本当ならとやかく言うのは畏れ多いんですが、石組から三宝院庭園や二条城二の丸庭園のような心地よい緊張感が感じられるか…と言うとそれほどでもないというのが正直なところ。
また、同じように伏見城から石を移して作られた庭が御香宮神社の迎賓館前にあり(非公開)、こちらは神社出入りの庭師の作とされていますが、石の種類は多彩でも、圓徳院ほどのバラバラ感はなく組めているような気がします。
賢庭作というのはそもそも元の伏見城での話で、しかもその時は水を張った状態だったもので、移設時にはまた別の方が指示をされたんじゃないか…という気もするんですが、これまでにも仏堂、仏像ともに色々とみていくうちにあとからその価値が分かってくることも多かったので、単純に理解できてないのかも知れません。
ただ、この庭は2006年発行のウィークリーブック「日本庭園をゆく」 に掲載の写真では、もっと木が生えていました。三宝院もそうですが、元の庭を尊重しすぎるあまり、庭師が手を入れられず、どんどん鬱蒼としてきてしまい、結果的に庭がダメになってしまうことを防ぐため、最近になって大掛かりに手を入れるケースがあるようです。この庭ももしかしたら今は余分な木を伐採して一旦リセットした状態で、これから多くの石とのバランスを考えながら鋭意作庭が進められるのかも知れません。訪れた季節もありますが、現状では石と苔だけの状態のため、それぞれの馴染みが希薄で、不自然さに繋がっているようにも見えると思うのです。
庭は難しいですね。どこも著名な人が作庭したとして価値を高めたいんでしょうけれど、日本庭園は作庭が四分、維持・管理が六分というのが実際ですから、小堀遠州が500歳600歳となれば問題ないんでしょうけれど、結局はその時代時代の庭師の感性に委ねて行かなければなりません。その結果は建築とは比べ物にならないくらい形に出てくるわけですから、頼む方も頼まれる方も必死です。でも、そういうフィールドだからこそ、作庭技術は建築技術以上にハイレベルで受け継がれているんじゃないかなと言う気はします。庭師の話をもっと聞いてみたいですね。
室町時代作と言われる宝塔の笠の部分を横に立て、軒の部分を凹型に切り取って手水鉢とした「檜垣の手水鉢」。