2019年夏の帰省ついで旅、初日は京都七条通の東端にある智積院へ。
日本庭園を好んで巡るようになってから10年くらいが経ちますが、当初よりバイブルにしているのが水野克彦氏の写真集「京都名庭園」、そこに掲載されていた智積院庭園の写真が美しくて、いつも行きたい庭園の上位にあり、2014年1月に訪れましたが、調査のため池の水がない!状態。
その後毎年のように訪れたものの、その都度調査で水がなく、今回4度目の正直でやっと普段通りの姿を見られ、こうして記事にする事ができました。
おけいはんを七条駅で下車、七条通を東へと進みます。
智積院ができる前、その場所は豊臣秀吉が夭折した実子、鶴松の菩提寺として建立した祥雲禅寺だったことはよく知られていますが、平家好きにとっては祥雲禅寺はもとより、三十三間堂、国立博物館あたり一帯は後白河天皇の「法住寺」の敷地で、平家の公達が闊歩したであろう興味深い地、まさに平家物語の舞台です。
さて、智積院庭園へは講堂の東側を通り、そこにはすでに池泉の南半分がありますが、こちらはほぼ祥雲禅寺の頃のものと言われています。
大書院に入ると、いよいよ廬山を模したとされる庭園の全貌を見る事ができます。
最近大きく手が入れられたようで、手持ちの資料などと見比べると樹木が伐採され、刈り込みも随分と小振りに。
丸い刈り込みはもう少しもっこりしていた方が華やかさはありますが、これは廬山ですし、滝石組が明瞭になってとても良いと思います。
ちなみに2014年に訪れたときはこうでした。2019年と比べると刈り込みも大きく、築山内に樹木が残っています。
当時はちょっとガッカリしましたが、一度通常の庭を見たら、水がない状態もこれはこれで楽しめます。
特徴的な2枚構成の石橋もこんな風に支えてるんですね。この石橋も祥雲禅寺の頃からのものと言われています。
縁側に出て全景を眺めてみます。
こちらは北側を望んだ見え方、良い景色です。
築山頂上の石塔はいつからでしょうか、個人的にこれはないか、中腹あたりにあった方が、廬山がよりそれらしく見えるように思います。
奥に見えるのは宸殿で、以前は今いる大書院と宸殿の間を池が延びて大書院の西側にまで広がっていたそうです。宸殿からも眺めてみたいものですね。
南向き(右手方向)の眺めは、2つの橋からより奥行きが感じられ、なるほど長江をイメージしているのにもうなづけます。
廬山というと屹立した岩山を思い浮かべますが、そういった険しいイメージよりも、廬山全体のスケール感を出すために、主要なもの以外は小さめの石を配しているように感じます。
下の写真は滝石組の拡大、滝の高い位置に橋をかけるのは玉潤流と呼ばれる技法だそうです。
重森三玲氏は自身の著書で、この滝石組はもともと枯滝で、近年改変されたと記していますが、ちょうど築山の裏側にある大師堂ができる(1789年)前、その場所には大きな池があり、滝石組に流されていたとの説もあります。
この辺りの湧水は以前より豊富だったようで、それこそ廬山の滝のような景観だったのかもしれません。
つまり、以前は水量が多かったため、ちょっと異質に見える切込み石はなかったが、大師堂建立後、水道に切り替わり水量が減るとまばらな感じになってしまうため、滝石組をいじって水流をまとめる切込み石を設置した…などと妄想も膨らみます。
それとは別に水際の石を見ると、みな喫水線があり、本来の水面の高さはもう少し上なんじゃないかという気もします。
こちらは大書院西側の枯山水、以前東側の池はこちらにまで延びていました。
こちらは講堂西側の庭園、よく手入れがなされた気持ちの良い景色です。
平安末期、この庭の辺りは法住寺南殿だった場所、写真左側の樹木の辺りまで池があり、その池はさらに南の最勝光院まで延びており、平等院にも似た建物が見えていた…かもしれません。
それにしても暑い、収蔵庫の等伯を観ながらしばし涼んで次へいきましょう。