南岳山光明寺

現代建築の違和感 後編

夏休みの自由研究のつづきです。ここで現代の建築を考えてみましょう。

安藤建築に見る自然

多くの現代建築家たちが当然のように口にする「自然」。もちろん背後には環境保護への意識があり、自らの作品の価値を高めたい意図があるのでしょうが、これほど薄っぺらな「自然」もありません。例えば安藤忠雄氏の「六甲の集合住宅」のように屋根に植物を置いてみたり、淡路島の「本福寺本堂」や直島の「地中美術館」のように地下に埋め込んでみることで、いくら「自然」をアピールしてみても、それが意味するのは、単なる「植物」か、あるいは「緑」でしかないことに気付きます。同氏は東京に水と緑の回廊をつくる「海の森公園プロジェクト」なるものを進めているそうですが、これにしてもまったく同様です。それが全く無意味なこととは思いませんが、人間にとって本来必要な「自然」とは、文字こそ同じでも、はるかに表面的で、まったくかけ離れたものであると言わざるを得ないのです。

安藤建築のもつ素晴らしいプロポーションと、高い緊張感を伴った空間には確かに目をみはるものがあり、それが海外の人たちのイメージする日本建築の持つ緊張感と重なった結果、日本の代表的建築と目されたりしていますが、実際には彫刻的要素によって判断されているだけで、逆に外との過剰な遮断によってコントロールされ過ぎた景色や、風土を無視した自然との乖離に日本らしさは見出せず、さらに漫画の宇宙基地のように地面に張り付いた様相からは、むしろ西洋的な感覚の建築と言えます。

木の殿堂

「住吉の長屋」では、「自然との共生」というコンセプトのために、住民に雨の日に部屋を移動する不便さを強いています。これに対して安藤氏は「安易な便利さより、天を仰いで風を感じられる住まいを優先した」と構造の正当性を主張、一瞬「なるほど、素晴らしい…」と思いかけるのですが、自然との共生のために本来強かざるを得ない不便とは、そんな表面的なものではなく、自然の輪廻から外れないために、現代生活の便利さをある程度我慢するケースがあれば、それを受け入れてもらえるようにすることであり、それを納得させるだけの説得力を持った建築をつくることのような気がします。

そもそもこの「住吉の長屋」は町屋がモチーフと言えますし、「水の教会」にしても、氏自身が好きだと公言している厳島神社からの影響と言え、日本建築を取り入れようとする意識は確認できるものの、いずれも表層的な段階に終始してしまい、その根底にあるべき自然の輪廻との融合はほとんど感じられず、その結果生まれたコンクリート建築たちの寿命にしても、いにしえの木造建築の1/3にも満たないのです。大きな環境負荷が伴うスクラップ&ビルドが前提の建築群、これが果たして日本建築の正常な進化と言えるのでしょうか。

根付いていたのは、得体の知れない土台

日本の建築家ならば、いにしえの建築たちが残してくれた、誇るべき素晴らしい技術や思想を受け継ぎ、昇華させるべきところを、本来日本の風土に最適なはずの木造建築の技術や思想はさっさと破棄してしまい、継続性のない、新しい技術に飛びついた結果、その存在はまったく表層的で大事な部分がスッポリ抜け落ちたものにしまっています。これは昨今の経済社会と同様、現代の虚構に満ちた実体のない、きわめて危うい土台の上にいることに気づかないまま構築されてしまった生活習慣と同質のものと言え、自然に生かされていることを忘れ、自らの立ち位置を見失ってしまっていると言えるでしょう。

技術の進歩は、一定の水準以上になると人の感覚を衰退させてしまいます。環境問題そのものに対しては、太陽発電の技術などによって住宅が自然循環のメカニズムに組み込まれていけば、表面上はある程度解決できるようになるのかもしれません。しかし、その行為はより自然に対する立ち位置を見失い、生かされていると言う実感を麻痺させることになるのです。

今の生活様式から考えて、100%自然の輪廻から外れずに行くことは不可能でしょう。しかし少なくとも数百年前の日本には、環境へのダメージを最小限に留める都市生活が存在していました。それだけになおさら、現代の建築家たちはもっとこのことに正面から向き合い、自然に生かされていることを意識させ続けるカタチや素材、構造を模索しなければならないように思うのです。しかし現状は日本庭園やその思想を取り入れるどころか、上空からの見た目を重視したような、無意味なランドスケープに自己満足しています。経済の成長と安定が全てのように言われる世の中ですが、果たして本当にそうなのか、大きな心得違いがそう思わせているだけなのではないのか、古来の建築や庭園を見ながら本当に必要な「自然」とは何かを認識し、どのように取り入れていくかを考えることも大切なのではないか…などとつらつら思っていた夏は、この113年間で最も暑い夏でした。

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現代建築の違和感 後編」への2件のフィードバック

  1. ほほー。
    自由研究とは面白い!
    そして、もの申す!文章は、
    とっても「らしい」なあと思って読んでましたー。

    デザインにしても、建築にしても。
    安東さんは、建築家でもあり、アーティストだよね。
    プロの建築家が目指すような「自然と生活の融合」
    と、彼のようなアーティストが目指すものと、
    同じようでいて全く異なるよねきっと。

    というか、デザインとか、今の新しいものは
    昔から培われてきたものと、深みが違うよなあーとは
    本当に思う。
    でも昔からのものって、本当に地道な努力が必要な、
    すばらしい知識と技術だから
    なかなか継承も難しいのかね??
    これから、そういう担い手が新しいものとの架け橋に
    なっていくのかもね。

  2. >>15どの
    やあ、久し振り。
    まあ、現代人は自己顕示欲が強いんでしょうね。
    あとは、
    都市に住むと感覚が麻痺する。
        ↓
    都市の人口が増える=麻痺した人が増える。
        ↓
    多数意見として麻痺した人の声が重要視される。
    とまあ、こんな流れなんじゃないかと…。

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