法隆寺

現代建築の違和感 前編

今年は夏休みの自由研究として「現代建築の違和感」を考えてみました。

庭園がくれたヒント

先日、ぷらっと書店に立ち寄ったところ、雑誌サライの最新号で庭園の特集をしていました。
昨今の仏像ブームに続いて庭園もブームになりつつあるのでしょうか?
庭園は建築と違って、いまでも日本の文化が色濃く受け継がれているようで、眺めて楽しめるとともに、おおきな安心感を覚えます。

じつは各地の寺社建築を見て回るようになってから、現代の建築にはずっと「ある違和感」を覚えていました。「カッコイイんだけど、ちょっと…」とか「よさげなんだけど…」と言う感じ。それに、かの安藤忠雄氏の著書を読んだりすると、その考え方などに「ああ、なるほど」と感心するものの、実際その建築を目にした時には「あれ?何か違う」と感じることが多い。巷には、その人気の高さゆえに安藤建築に対する批判も少なくはないのですが、その理由となるとなかなかコレといったものが見当たらず、自分にある違和感の理由がなんなのか、ただの懐古趣味の反動による嫌悪でしかないのかがずっとわからずにおりました。

しかし最近、この日本庭園への興味が深まるとともに、その違和感を解いていくあるキーワードに気付きました。それは「自然」です。

構成要素の多くが木や石、水など自然のものであることから、「そこに一体何を取り込もうとしているのだろうか…」と、本来の意味合いについて考えさせてくれる日本庭園。サライでは、配置された石の意味や、庭の読み解き方などの説明がありましたが、もっとそれ以前の根本的なねらいを知りたい…というときに、ヒントを与えてくれたのが尼崎博正氏監修の「すぐわかる 日本庭園の見かた」です。

この本の「はじめに」に、「日本庭園は『壮大な自然の輪廻』と『創造的な人の営み』の融合空間とみることができよう。」とあります。ここに現代建築への違和感を読み解くためのキーワード「自然」と、その意味を再定義することの重要性が見出せるのです。

「自然」とは一体なんでしょう

私たちは、都市や環境、生活を語る時など「自然」と言うことばを頻繁に使います。とても身近な単語には違いないのですが、この「自然」というものの捉え方のズレが、結果的に現代建築への違和感に繋がっていたようなのです。

「自然」と言われて思い浮かべるのは何でしょう?原生林などに代表されるような手つかずの自然でしょうか、それとも木や草花など植物そのものでしょうか。

どちらも決して間違ってはいませんが、庭園や建築を考える時に、より意味を持つのは「手入れの行き届いた自然」です。この言葉に疑問を持たれる向きもあろうかと思いますが、例えば「手入れの行き届いた山」などというのは聞いたことがあると思います。

これはつまり自然の輪廻の中に人間の営みが溶け込んだもので、人間が地球上の生物の一員として自然に生かされていることの表れと言えるでしょう。逆に言えば人間の手がついた自然をみな穢れたものと捉えてしまうのは、現代人がすでに自然会の中での自らの立ち位置を見失ってしまっている…と言えるのかもしれません。つまり、現代の建築に対する違和感は、「自然」ということばの表すもののズレから生じているようなのです。

人間が自らの住む世界を守っていくために必要なのは、自然の中に生き、自然に生かされていることを意識しつづけること。そして自然の輪廻と人の営みの融合の流れから、できる限り外れないようにしていくことです。例えば人の暮らしが、里山とともに生態系を築いていたように、共にあることを忘れないようにしなくてはなりません。

1000年建ち続けることの意味

法隆寺をはじめ、唐招提寺金堂や薬師寺東塔など、修復を受けながらも1000年をこえて生き続ける建築たちは、樹齢800年以上の檜を用いて作られています。今では我が国にそのような材が残っていないために贅沢な印象もありますが、本来であればこれらは1000年以上建ち続けることで、人工物でありながら十分自然の輪廻に沿ったものと言えるのです。

そしてこれらの建築たちには、1000年以上もの命を実現させるための技術と思想がしっかりと込められています。組物に代表される建築上の技術はもちろんのこと、鍛えられた釘や、何年もの歳月かけて水に浮かべて乾燥させた木材など、当時の技術者たちには、100年、1000年先を見越したモノづくりができる力が備わっていました。

そもそも、何億年もの流れを持つ自然の輪廻に沿っていくためには、それがある意味当然だったのかもしれません。

後編へ続く。

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