薬師寺から唐招提寺へはほぼお隣さんのようなもので、歩いてスグです。
「天平の甍」と謳われた唐招提寺金堂、平成の大修理を追い続けたスペシャル番組はもう面白くて面白くて本当に夢中になりました。あの番組のお陰でこの旅があるようなものです。その”主人公”に今日ついに会うことができました。平城京にあった数多くの伽藍が失われて行く中、唯一生き延びた唐招提寺金堂、快晴の中でその姿を拝めて感無量です。
この、唐招提寺金堂の平成大修理記念特集を、現在発売中の芸術新潮12月号が66ページに渡って掲載しています。1400円と雑誌の割にちょいとお高いですが、写真も奇麗ですし、興味のある方にはオススメです。
南大門を通ってまず金堂を見た時には、やはりまずその大きく広い屋根に目がいきます。ピシっと葺かれた本瓦と、新たに作られた両側の鴟尾に山本清一先生の素晴らしい仕事ぶりが伺えます。
徐々に近づいて行くにつれて太い列柱が存在感を増し、堂々としたたたずまいに感嘆しますが、番組でも言われていた通り、このお姿は元々のものではなかったんですね。江戸の元禄期までは屋根の高さが今より2.8メートルほど低く、彩色もされていましたので今とはかなり印象が違っていたようです。
鎌倉期ならまだしも、ごく最近の江戸期の改造だったのなら、個人的には今回の大修理で当時の姿に戻して欲しい気もあったんですが、難しいですね。屋根の低い当時の姿は両端に回廊がついていてこその姿なのかも知れないからです。
それに金堂の一間分の開放スペースじたい、回廊との兼ね合いの産物の可能性もあり、本来の姿を見たいなら回廊も復元しないといけなくなります。
今こうして回廊がなくなってしまい、独立した一個のお堂として建つには、現状の形が良いのかも知れません。また、ごく一般的な日本人のもつお堂のイメージとして、屋根の傾斜が急で、より禅宗様的な形の方がありがたがられるかも。ただ、それにしても明治期に入れられた小屋組のトラス構造は変えて欲しかったような気はします。このトラスを入れた関野氏のお弟子さんは、後に法輪寺三重塔の再建で、西岡棟梁と鉄骨を使う使わないの論争することに…。なんだかなぁという感じです。
金堂には、最古最大の千手観音様と最大の脱活乾漆像、そしてこの2体に押され気味ですが薬師如来様がおられます。どれひとつとってもすごいのに、こう並ばれるとかえってありがたみが…。元からこの3体を収めるための金堂ではなかったそうで、正当な形式を踏んだものではないのかもしれませんが、この雰囲気もまた独特で格別なものがあります。
さて、金堂を眺めてみますと、屋根の垂木は地円飛角がみられますが、地垂木は何本か新しくなっているのが分かります。文字通り丸い断面の丸桁と、三手先組物が時代と技術の流れのいいバランス感を持っています。
東面の柱の足下には今回新しく継いだ部分がハッキリ分かります。説明によるとこの部分は明治の修理で継いだ部分らしいんですが、その技術が低かったためか早くも腐食していたとのこと。創建当時の柱はほぼそのまま使えたのに明治、いけませんね。継ぎ足された部分は槍鉋で削って、表面はなるべく目立たないように塗ってあるそうです。さすが廃仏毀釈を行なった時代、自分にとって明治は「維新」どころか「やっちまった」感全開の時代として刻み込まれてしまっています。
こちらは1000年以上もの時を見続けてきた柱の表面です。これだけで有り難い気持になります。
唐招提寺には金堂以外にも大変貴重な建物があって、金堂の裏に位置する講堂もそのひとつ。元は平城宮で身分の高い役人が執務に備えて身なりを整えるための朝集殿だったそうで、屋根を切妻から入母屋に変更し、壁やとびらを付けるなどの改造があるものの、唯一現存する宮殿建築とされています。このあたりはもっと勉強すれば、より宮殿らしさが読取れるのかも知れないんですが、まだまだ今は「そうなんだ~」と思う程度。それでもこうして多くのものを見ていけば何かしらの雰囲気をつかめるようにはなるかも知れないですね。
連なる軒、こうして見ると何分の一かでも当時の雰囲気と言うか、空気感が読取れそうな気がしてきます。唐招提寺は他にも宝物館や鑑真和上御廟、戒壇など多くのみどころがあり、全てしっかり回ってきましたが、時間も11時、お腹もすいてきたのでランチをすべく唐招提寺をあとにしました。