自分にとって最もこころに残る庭園、それが毛越寺の浄土庭園です。
日本庭園をまじめに見ようと思ったのは2009年頃だったでしょうか。以来、それなりに多くの庭園を見てきましたが、自分自身の考える庭園の原点であり、いつもこころにあり続けたのが、20年近く前に訪れた毛越寺の浄土庭園でした。
まだ4枚残っている青春18きっぷを使う目的地として、候補に上がったのがそんな毛越寺のある平泉、かみさんと1泊で行けばちょうど使い切れるというわけです。
そして再び出会えた石組たち、個々の石の表情からして素晴らしいうえに、立石とそこにつながる出島全体の構成が、もう完璧としか表現できないほどの完成度。
今回は始発電車から何時間もかけてたどり着いただけに、感慨もひとしおですが、「来て良かった」と、素直にそんな気持ちになります。
この2日間の天気予報は「雨」だったんですが、ありがたいことに毛越寺では降られず、むしろこのような日差しが差し込む場面も。とはいえ今回はPLフィルターは使えませんでした。
立石背後のゆるやかな汀がとてもきれいで印象的です。日本文化の頂点は桃山時代かも知れませんが、そんな日本人の心にあるのは平安時代であったような気がします。
立石は、東日本の大震災で約8度ほど傾いたそうですが、修復によって戻されました。現在のGoogleマップの園内ストリートビューは、ちょうどそのときに収録されたものになっているようです。
寄っても引いても素晴らしいのが毛越寺庭園。借景となる塔山とのつながりも秀逸です。
かつて栄華を極めたこの地には、白河天皇が造営した法勝寺を模したという幾多の堂宇が建ち並んでいました。いにしえの姿を取り戻した平等院を思えば、往時の姿を見てみたい気もしますが、不思議と毛越寺の庭園には「このままでいいかな」と思えるものがあります。
「兵どもが夢の跡…」池にそびえる立石が、三代で消え去った栄華を偲ぶ墓標のようにも見えるからでしょうか。
当時はここの左手から、正面の中島を経由してその先の金堂へと橋が架かっていたそうです。それらがすべて失われたことで、かえって石組の存在がより強調されることに。池泉の周りを歩くと、徐々にその傾きを変えていくのも魅力です。
毛越寺庭園は立石の他にも随所に見所が散りばめられています。こちらはもはや護岸ではなく、荒磯を表現した立派な石組です。右先端の石が亀にも見えるため、亀島との見方もありますが、そうすると立石がその対となる鶴島になるんでしょうか。
吾妻鏡で「荘厳さでは我が国無双」と謳われた伽藍も、その後1226年、1573年と2度の大火で失われ、今ではわずかに礎石を残すのみに。
金堂跡の右手奥には発掘調査によって復元された、平安時代らしい優美で雅な遣水がみられます。平安時代の遺構としては唯一かつ最大で、毎年5月には盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む、曲水の宴が催されます。
優美といえば、大泉ケ池の西岸から北岸一帯にかけて作られている、北上川産の玉石を敷き詰めたという州浜も見事で、美しい海岸風景がそこにあります。
奥州藤原氏の豊かな財力、そして信仰心…毛越寺庭園の美しさは、この地にあったからこそ作られ、守られてきたように思います。紅葉の時期も非常に素晴らしいとか、また何度でも訪れたい庭園でした。
こちらはお隣、二代藤原基衡の妻が建立したとされる観自在王院跡。毛越寺同様、伽藍は失われているけれど、浄土庭園の面影は残っています。こちらはよくイベント会場として使われているようで、この日も準備が行われていました。