前にも書きましたが、法隆寺の見学を予定している3日目の天気予報は雨。
中学校時の修学旅行以来の憧れの法隆寺、やっぱりきれいな写真を撮りたいという意識が強いんでしょうね、雨ではそのあたりがなかなか難しいので、じっくり見るのは3日目にするとしても写真だけでも…と言う気持で向かいました。
法隆寺前に着いて、南大門前の駐車場ではなく、事前に調べておいた東院伽藍近くの駐車場に停めようと思ったところ、なんと平日のためかチェーンが架けられていて入れない。あれれ~と折り返すスペースもないままズルズルと直進したところ、かえって法輪寺が近くなってしまいました。そこで、時刻は2時頃でしたが快晴でまだ明るいので、法輪寺と法起寺を先に見ることに。
法隆寺五重塔と法輪寺、法起寺の三重塔は、飛鳥時代以来1300年もの間斑鳩三塔として親しまれてきましたが、1944年に法輪寺の三重塔は落雷で焼失。明治に行なわれた解体修理からわずか40年だっただけでなく、避雷針が戦時中の金属供出のために外されていたことが災いしてしまったことから、関係者の落胆はそれはそれは大きなものだったことでしょう。
その後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に元の姿で塔は再建されましたが、国宝の指定も解除された中、小規模のお寺が当時の工法で復元するのは相当大変なことだったでしょう。再建時の棟梁は西岡常一氏ですが、資金不足による工事中断の後、西岡氏は薬師寺の仕事があったために、再開後は当時の弟子だった小川三夫氏に任せたとされています。現鵤工舎舎主の最初の仕事と言うわけです。ただ、小川氏の本によれば西岡常一氏は通り肘木に当初棟梁の予定だった父の西岡楢光の名を総棟梁として書き記したそうで、つまり我が国一級の宮大工の流れが、この三重塔には込められているのです。
また、この塔は基本的に飛鳥当時の形で造られていますが、一部金属補強が入っているそうです。これについては大論争があったそうですが、難しい問題ですね。前提として当時の雲肘木は組物として完成されていなくて、長年のあいだにどうしても軒が下がってきてしまうんだそうです。ただし、せいぜい持って200年の鉄と1000年以上持つ木との組み合わせは、入れた当初こそ補強になるかもしれないが、数百年後にはそこから腐ってしまい、かえって仇になる可能性がある、それにいきなり新築の時から入れてしまうのはどうか…と言うのが棟梁の考えです。もはや樹齢の高い檜材が残っていないことから、数百年後の修復じたいできないかもしれないと言う背景もあります。
金属補強を入れるくらいなら四天王寺のように元から鉄筋で造った方が良いのか、元から鉄筋で造るなら何も飛鳥時代と同じ形でなくても良いのか、宗教施設である以上、お寺の宗教的機能を果たせばそれでいいのか…、大工、学者、お坊さん、檀家、一般人、それぞれの立場によって考え方も大きく違うことでしょう。ただ、個人的に思うのは、闇雲に古の技術を崇め奉る必要はないですが、現代の技術を最高のものと過信するのはかなり危険なことじゃないかなということです。
それはともかく、法輪寺は小さいながらも伽藍全体に品格があって居心地の良いお寺です。講堂には薬師如来坐像など顔の長~い飛鳥時代の貴重な仏像さんを拝めます。
法輪寺から東へ進むとほどなく法起寺があります。ここも法輪寺と同じく、現在は小規模なお寺になっていますが、かつては伽藍が形成されていました。現在の通常の入り口は西門なのでちょっと分かりにくいのですが、南大門の前に立って三重塔と、かつて聖天堂の場所にあった金堂を思い浮かべると、なんとなく往事の威容が想像できるような気がします。
ここの三重塔は706年の建立で三重塔としては日本最古のものです。華麗な美しさと言うよりも、素朴で端正と言った方がしっくりくるその姿は、力強さと品を兼ね備えています。法輪寺の塔もそうですが、少し歩いて遠くから斑鳩の里に溶け込んだ姿を拝んでみたくなりました。そのうちもっと時間をたっぷりとって、法隆寺や中宮寺も建てられたこの地をユックリ歩いて、なぜここが日本文化の芽生えた地となったのかを、肌で感じてみたい気がしました。