昨日、寝台特急のあさかぜ号が半世紀近い歴史に幕を閉じる事が報道されていた。
この、あさかぜ号は自分にとって思い入れの強いものだっただけに寂しさもひとしおだ。
高校野球の夏の大会が終わってから始めたアルバイトが、新幹線の車内販売だった。単純に旅行が好きだったし、兵庫生まれの自分がタダで大阪に行ける事が嬉しかった。
その後、1987年に国鉄がJRになったことを機に、所属する上野の日本食堂が新幹線営業から九州方面行き寝台特急に切り替わり、最初は、食堂車のスタッフとクルーを組み、「はやぶさ」や「富士」に乗務していた(さくらやみずほは別営業所らしい)が、そのうち下関あさかぜを任される事になった。
あさかぜ号は当時博多までの1/4号と下関どまりの3/2号の2系統あり、自分が担当したのは後者で、これには食堂車がついておらず、自分ひとりが販売員として東京~下関を乗務するもの。東京を夜7時頃出発し下関にはお昼前に到着。施設で仮眠を取って(若かったので仮眠せずに下関観光をしていたが)夕方にまた下関を出発し翌朝東京に着くという事を幾度となく繰り返した。
営業時間終了後、下りの時は最後尾の乗務員室に座って、流れ行く景色を眺めていた時間が今でも鮮明に思い出される。途中祖母宅の最寄り駅である有年や父の実家の宮島口を通る事も楽しいものだった。
あさかぜ3/2号の担当は広島車掌区で、車掌さんはみな広島弁。父の生まれが広島だと話すとすぐに打ち解けて、自分の車内販売の案内放送を「名調子だねえ」と褒めてもらったり、広島への帰省を取りはからってくれたりしたものだった。
逆に、ノルマがある記念オレンジカードや記念キーホルダー販売に協力したりした。また、酔ったお客さんからは1万円もチップをもらったり、ごちそうをしてもらったりした事もある。営業時間後はひとり夜の車窓を眺めながら、多感な時期だったし、色々な思いを巡らせていた事も強く心に残っている。
バイトを辞めたあとも東京駅に差し入れをもって行ったりしていたのだが、時代の流れから客離れは顕著だったし、寝台特急は年々少なくなり、いよいよ九州方面へは1本のみとなるらしい。いつかはこういう日が来るんだろうなとは思っていたけれど…。