清盛塚のあとは、そこから数百メートルとほど近い能福寺に立ち寄った。
能福寺に着いて最初に目に飛び込んでくるのが大仏(胎蔵界大日如来像・毘慮舎那仏)さんだ。
もともと1891年、兵庫港開港以来急速に拡大してきたキリスト教に危機感を抱いた仏教徒らが、キリスト教に対抗するために豪商・南条荘兵衛の寄進によって建立、日本三大大仏の1つに数えられた。しかし、1944年の金属回収令により解体、現在のものは大仏建立100周年にあたる1991年再建のもので、初代が身丈8.5mだったのに対し、2代目は11mにもなる。
ちなみに、2代目になってからも日本3代大仏として数えられているかどうかは不明らしく、いやはや仏さんの世界もいよいよ世知辛くなってきたとみえる。
そんな大仏さんに代表される能福寺だが、もちろん平清盛との繋がりも深い。1168年、病に倒れた清盛はこの寺の住職であった圓實法眼の手により剃髪入道したとされているし、また1180年の福原遷都時には平家一門の帰依を受け、七堂伽藍が整い隆盛を極めていたらしい。清盛薨去の際には、遺言により圓實法眼が遺骨を持ち帰り、寺領内にあった太平山八棟寺に平相国廟を建立したと伝えられている。
しかし平家滅亡と同時にこれらはことごとく破壊され、灰燼に帰し、以降永く放置され、長盛法印によってやっと再建されたのは、300年も後の1899年と伝えられている。
現在、大仏さんの前にある平相国廟は、清盛の800回忌である1980年に再建されたもので、圓實法眼宝筺印塔忠快印塔も合祠されている。
境内にある月輪影殿(京都の九条家より拝贈)は、震災で被害を受けてしまった(瓦が重みで傾いた)が、指定文化財でなかったため補助が出ず、解体の予定だったところ、京都の宮大工の会社から保存すべきとの提言があり、修復されたそうだ。ただ、ほかにも倒れたままのものがあるし、月輪影殿の前には空襲で焼け落ちたのか、何らかの建物の礎石がそのままになっているなど、能福寺の境内は決して整っているとは言い難い。でも、立派な建築と深い歴史があるのだから、先に復活した大仏により多くの方の参拝を受けることで、以前のような大伽藍とまではいかないまでも、それなりの威容を備えるくらいに復活し、後世に清盛の功績なども伝えていって欲しいと願う。
皆さん神戸に行った際はここにお参りしましょう。(近くにフォードもあるし)