坂越を出たあとは、坂越橋を渡って赤穂に向かい、そこでランチ。
ランチは手っ取り早く、JUSCO内で済ませたが、その頃あれだけどんよりしていた雲がなくなり、暑いくらいの天気になってきた。もうちょっとはやくこれだけ晴れてくれればと思ったが仕方ない。坂越も今日のほかの町と同様また来る事ができるだろう。
赤穂からは山越えをして有年に向かい、祖母の家に着く。具合は決して良くないようだが、随分気候が良くなって来たので過ごしやすくはなってきているようだ。いつものように3時間弱ほど話をしてから、早めに出る。お盆あけくらいにまた来れると良いな。
有年から宿泊先の姫路までは単純に国道2号線を使えば良いのだが、昔から祖母に話を聞いていた有年と播州赤穂を結んでいた赤穂鉄道の廃線跡に行ってみる事にした。
赤穂鉄道は1921年に開業した軽便鉄道で、塩なども運んでいたと言う。国鉄赤穂線の開業と入れ替わる形で1951年に姿を消した。母親は乗ろうと思えば乗れていた時代だ。
国道2号線から左に分岐する茂みが路盤跡だと言うのは、小生が小学生の頃から聞かされていた事だった。道は直角的に曲がっているが、その奥に鋭角的に向かう土地がありそこが路盤跡だろう。
線路はこのように千種川に沿って作られていたようだ。江戸時代にはこの川を使って塩が運ばれていたそうで、有年は船着き場としても栄えていたらしい。
だんだんと道は狭くなり、軽便鉄道の線路跡っぽくなる。まわりは茂みで現役時代もこうだったかはわからない。
ほどなく道標があり(写真右側)「富原(とんばら)駅跡」と書いてある。こういうのを表記している事に感心。また「富原駅は真殿駅間1.5km,有年駅間2.3kmの停車場で、乗客がある場合にのみ列車が停止していた.駅舎は無人で、待合室のみの簡便な建物であった」とも解説してあり、これはほかの駅跡もほぼ同じだった。
またしばらく進むと今度は同じように「真殿駅跡」があったが、ここは乗降用ではなく、給水所だったそうだ。
茂みを抜け、少し下ると目の前がいきなり開ける。そして「周世駅跡」がある。横切る高架は山陽新幹線。
新幹線をくぐると千種川を渡る橋がある。現在の道路のすぐ横に橋桁跡があるが、それが遺構ということだ。
ここから先、線路は川を少し離れて赤穂に向かったようだが、小生はまた坂越橋を渡り相生に向かうので、ここで打ち切り。次の機会に譲ろう。