薩摩守忠度の供養

赤穂からの帰りもまたひたすら寄り道三昧、今回はかねてより念願だった平忠度への供養のために、明石へ向かいました。

土日は高速料金が安いとのことで、早速赤穂ICから山陽道にあがり、山陽姫路東から播但連絡道を南下して加古川バイパスを東へ向かいます。そのまま走り続けると第二神明道路になるわけですが、その境目の明石西ICで降りてまた南下、国道250号線に出ます。実はこの250号線と山陽新幹線がオーバークロスする近くのコスモ石油のガソリンが安いということなので、そこで給油する予定でした。まだ新しいステーションのようですが、入れてみると何とハイオクがリッター117円と激安でした。おそらく土日割引とやらも適用されていたんでしょうね。あの高騰騒ぎはどこへ行ったんだというような価格でした。

で、250号線を東に向かい2号線に合流、明石を過ぎてしばらく行った左側に休天神社というのがあるんですが、そのすぐ近くのタイムズにクルマを停めます。ここは山陽電鉄の人丸前駅から近いところで、一の谷の戦い関連の史跡が点在しているんです。
我が家には小林清親の制作した平忠度と彼の歌が入った浮世絵がありますが、それを毎日眺めるにつけ、彼の最期の地を訪ねてみたいとは思っていました。

平忠度は清盛の末弟で、父忠盛の6男として熊野に生まれ育ったと言われています。父ゆずりの文武両道に秀でた名将とされ、都落ちの際には密かに引き返し、師匠である藤原俊成のもとに和歌を託したのは有名なエピソードです。
一の谷の戦いでは、敗戦が濃厚となって落ち延びようとしましたが、源氏方の岡部六弥太忠澄に追いつかれ、組み合います。剛力でも知られる忠度ですから忠澄を組み敷いて首を討ち取ろうとした時に、背後から忠澄の郎党に右腕を切り落とされて観念し「首を討て」と言い放ったと言われています。忠澄が名を尋ねたものの「即仏、無色、名などはもうない」と答え、西に向かって念仏を唱え、討たれました。なお、忠澄は自国に帰ったのち、忠度の人柄に感銘を受け、供養塔を設けたとされています。

その忠度と忠澄が川を挟んで戦ったと言われる《両馬川旧跡》が、まさに人丸前駅北側のJRガード下にあります。かつてはここに両馬川という川が流れていたのでしょう。


人丸駅には周辺マップがあり、周囲の史跡の場所もバッチリ確認できます。両馬川史跡の少し北には平経正の馬を埋めたと言う《馬塚》がありますが、経正もまた忠度とともに落ち延びる途中に討たれたのでしょうか。

馬塚のあとは、山陽電鉄のガード沿いを少し明石方に歩くと《腕塚神社》があります。
結構こぎれいにされ、自分の他にもひとりお参りのお婆さんがいました。備え付けの解説によると「もとは塚であったが鉄道敷設の時取壊されたので神社として祀るようになった。腕・腰の痛みに悩む人の信仰がある。」そうです。自分も腰痛持ちなのでしっかりとお参り。それにしても都市圏の史跡は守って行くのが大変ですね。

腕塚神社から今度は2号線を横断すると、何の変哲もない公園があるのですが、《忠度公園》と名付けられています。地元の子供たちが「忠度公園で待ち合わせなー」とか言うんでしょうか。歴史の根付いた場所っていいですね。

そしてこの界隈のスポットの締めが《忠度塚》。忠度公園からもスグです。両馬川で討たれた忠度の亡骸を埋めたところと伝えられているそうですが、ここもとてもきれいにされて、地域の方に大切にされているのが伝わってきます。震災の時に被害を受けたそうですが、こうして元通りにされています。
忠度塚は神戸にもあるのですが、こちらの方がより鮮明にストーリーを追えますね。

写真を撮った場所は忠度塚近くの交差点で、遠くに見えるガードの下が両馬川史跡です。あそこで討たれ、ここまで運んで来られて埋められたということでしょうか。
「ゆきくれて 木のしたかげを宿とせば 花や今宵の主ならまし」という歌を何度も思い出しました。
今回利用したタイムズ駐車場ですが、戻ってきて清算しようとするとこんな看板が。

なんと翌日までしか営業しないことになっていたんですね。このあたりは思いのほか駐車場が少なく、今後は忠度を尋ねるのにも苦労しそうです。

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