夢野八幡神社からさらに東に進んだところに雪見御所跡はあります。
平家物語の覚一本には「故入道相国の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿・松陰殿・馬場殿・二階の桟敷殿・雪見の御所・萱の御所、人々の館共、五条大納言邦綱卿の承つて造進せられし里内裏、鴦の瓦・玉の石畳」とあります。
1168年に太政大臣を辞して出家した清盛は、実権を握りながらも福原に移り住み、大輪田泊を整備して日宋貿易に力を入れました。雪見御所はその時に造られたいくつかの邸宅のうちのひとつと言われています。
この石碑はもともと湊山小学校敷地内の南側校庭内に置かれていましたが、それゆえ見学時間などが限られるなど不便だったため、改善の要望も多かったことから、大河ドラマ「義経」の放映を機会に市道に面した同校北西部に移設されました。
スグ横をながれる天王谷川。左手にあるのが湊山小学校。山の形は変わっていないでしょうか、清盛もこの山の端を眺めていたと思われます。
先述した平野祗園神社からの眺め。説明文によれば、雪見御所の敷地は小学校より北側に広がっていたそうで、画像では中央の小学校から手前の一帯がそれにあたります。右側の黄土色の建物は湊川上温泉。公卿、中山忠親の日記である『山槐記』には雪の御所から一町(109mほど)に「湯屋」があったとされ、ここがそれにあたるのではないかと言われています。この平野祗園神社からの眺めは夢野八幡神社以上で、ここで景色を眺めながら清盛の夢を想うのもまた一興です。心配していたのは源氏の台頭か、後白河の胸の内か、はたまた育たぬ我が子たちのことだったでしょうか。
平野祗園神社から真っ直ぐに南東に進む道があり、そこを進むと東福寺と言うお寺があります。
ここでの説明文にこうありました。清盛は平野祇園神社の裏山にあたる場所に七堂伽藍を完備した上伽寺を築き、雪見御所ができるまでの間ここに居を構えて大輪田泊の築港を監督し、潮の干満を調査しました。そのとき清盛自身が上伽寺の山号を潮音山と改称したそうです。
しかしその後の合戦で焼失し、450年ほど経った頃に潮音山上伽寺の復興を願って、村の中央に一宇が建てられたのが東福寺となりました。残念ながらさきの震災で伽藍は全壊し、その後再建されたのが現在の建物と言うことになります。
このあたりの記述が夢野八幡神社とかぶってるんでしょうね。夢野の方は福原京を造るにあたっての測量で、平野のほうはそれ以前、大輪田泊の築港などのためのものだったということでしょうか。いずれにしても850年前に清盛がこの界隈をウロチョロしていたのは確かなことで、当日の汗ばむほどの陽気にも歴史を感じることができました。