関西2日目の10日は平家巡礼のために京都に向かった。
司馬遼太郎の「義経(2巻)」に始まった源平研究は、吉川英治の「新・平家物語(16巻)」を経て、今は池宮彰一郎の「平家(4巻)」の3巻目に来ている。確かに合戦は面白く、義経も良いのだが、どうにも清盛その人に魅せられてしまい、次に読む予定だった村上元三の「源義経(5巻)」をもう買ってあるのだが、清盛モノを読みあさってみたい気になっている。
そんな折りの関西行きだったので、自然足は平家巡礼となるが、迷ったのは神戸と京都だ。気持ちの上では清盛の夢であった福原、つまり神戸に行きたかったのだが、暖冬で遅れている紅葉がまだ京都で見られるとあって、今回は京都に行く事にした。京都は万年渋滞の印象があるので、青海波号はお休み、電車で向かった。
JRで京都についてからまず目指したのは清盛の過ごした別邸、西八条邸のあった梅小路蒸気機関車館付近。しかし、機関車館じたいが既に文化遺産の性格であり、清盛の清の字も見当たらず、ひたすら心のなかで往時を偲び、見える山の端がほぼ同じであったのだろうと想像するのみであった。
そのあと、八条通と西大路の交差点近くにある若一神社(にゃくいちじんじゃ)に向かった。若一神社もまた西八条邸の敷地内にあって、その鎮守として、熊野権現十二社の一つである若一王子社の分霊を祀った、という社伝があるそうだ。清盛が熱病にかかった際に、その体を冷やしたとされる御神水や清盛手植えとされる大楠、祇王歌碑、平清盛像がある。いまでこそこじんまりとしたところだが、確固たる歴史に裏付けされた場所と言うのは重みがあって感慨深い。
若一神社のあとは七条通を一気に逆行し、蓮華王院三十三間堂を訪れる。ここはもはや紹介するまでもないほど有名。ただ、「御白河法皇の命で平清盛が創建」と紹介される事が多いが、「平清盛が後白河法皇に寄進」というのが正しいような気がしている。当の三十三間堂じたいあまり大きく清盛の名前を出していないようで、平家の印象が、結果的に逆賊になってしまった事から、長い歴史の中で大きく歪められてしまった感がなくもない。
三十三間堂のあとは、刑が頻繁に行なわれたと言う六条河原あたりを眺め、義経と弁慶が出会ったとされる五条橋(今の橋は秀吉が架け替えたために松原橋付近が正確な場所らしい)を経て、平家の代名詞とも言える六波羅にあったとされる六波羅蜜寺を訪れた。ここには重文の平清盛坐像がある。非常に優れた像で、一見の価値ありだ。
清盛がいた頃というのはもう850年も前のこと。江戸時代の文化財すらままならない中、ハッキリと往事を思い起こさせるほどの形跡が残る事すら至難だが、確かにそこに存在していたという事実と、今そこに自分がいるという事実だけでとても満たされた気分になれる。そしてそんな土壌を多く持ちあわせた関西にはやはり憧れる。
ともかくも歴史を読み直した事はとてもよかった。今後も読み続けてまた訪れたいと思う。それにしても歩きすぎた。7km前後歩いただろうか、最近はほとんど出歩かないだけにかなり堪えた。
浅水の森。
平家一門を追いかけて~。
という事で…京の平家屋敷跡地の中でも主要で御座いました、
西八条について。
当初は六波羅に屋敷を構えていた御一門ですが、加えて西八条にも邸宅が並ぶようになります。
現在の西八条から当